BALLYピンボールの歴史


BALLYの創設者のRaymond T. Molonyは、GOTTLIEBのディストリビューターとして「Baffle Ball」を取り扱っていた。あまりにも売れる「Baffle Ball」をみて、彼は「Ballyhoo」というピンボールを開発し発売した。そして、ここからBALLYという社名を採用したのである。しかし、GOTTLIEBが常に健全なアミューズメント・マシンの開発に注力したのと異なり、BALLYの歴史はギャンブル・マシンの開発と切り離して語ることはできない。

1933年には初のペイアウト・マシン「Rocket」を発表した。当時、多くの業界人は現金を支払うペイアウト・マシンの将来に楽観的で、GOTTLIEBやGENCO以外のほとんどのメーカーがこれに追随した。だが、ペイアウトは人々の反感をかうようになり、新聞でオペレーターは犯罪者のように扱われ、ピンボールをするプレイヤーは、働かずしてお金を稼ごうとする怠け者と見なされるようになっていった。そして全米各地で、ピンボールが禁止されていったのである。(注釈1)

1947年のフリッパーを備えた世界最初のピンボール「Hampty Dumpty」により、ピンボールはギャンブル・マシンと区別され、事態は好転するかと思われた。しかし、1951年にBALLYは新たなギャンブルマシン「バリー・ビンゴ」を発表したのである。これは、ピンボールのギャンブル性に荷担する悪材料となった。

60年代には、BALLYは1963年に他社にはないマッシュルーム・バンパーを備えた「Monte Carlo」を発表した。続いて1966年に、初めての閉じるフリッパーであるジッパー・フリッパーを備えた「Bazaar」を発表した。70年代に入ると、BALLYは次々とヒットマシンを発表した。「Fireball」(1971年),「Nip-It」(1972年),「Wizard」(1974年),「Capt. Fantastic」(1975年)などは、今でも人気の高いマシンである。なかでも大物ロック・バンド、THE WHOの「Tommy」はピンボールをテーマにしたロックオペラで、音楽も同名の映画も大ヒットとなった。このタイアップ・マシンの「Wizard」と、Elton Johnがバックグラスに描かれている「Capt. Fantastic」の成功は、BALLYを業界のトップ・メーカーに押し上げた。その後のソリッド・ステート・ピンボールの登場にもうまく対応したBALLYは、1977年に累計生産台数20,000台を越える大ヒット作「Eight Ball」を発表した。これは、その後10年以上破られない記録となった。

「Playboy」(1978年),「Kiss」(1979年),「Xenon」(1980年),「Eight Ball Deluxe」(1981年)と傑作マシンを発表してきたBALLYだったが、1980年代に入ると徐々に退潮傾向がはっきりしてきた。

1982年の年末に、業績不振のBALLY PINBALLと好調のBALLY MIDWAYを統合して、BALLY AMUSEMENT MANUFACTURING DIVISIONを設立し、BALLY MIDWAYをブランドとするAMメーカーとなった。当時すでに親会社のBALLYは、スロットマシンの生産やカジノの経営を主体としていた。1983年の11月には、起死回生を狙ってWILLIAMSの取得にかかるが、1984年1月に交渉打ち切りとなった。その後、ライバルのWILLIAMSの復活と対照的にBALLYの業績は不振を極めた。そして、1988年の「Blackwater 100」を最後に、BALLYのゲーム部門はWILLIAMSに買収された。ここにBALLYによるBALLYピンボールは、57年の歴史を閉じたのである。

1988年の暮れに新生BALLYの「Truck Stop」が発売された。WMSの傘下で、MIDWAY MANUFACTURINGという会社が作られ、BALLYブランドは生き残ることになった。しかし、すでにフリッパーなどのパーツは、WILLIAMSの物を使用していた。そして、徐々にBALLYとWILLIAMSの差というものはなくなっていった。現在では、残念ながら両者のマシンの差はほとんどないと言ってよい。これは、BALLY系の工場でもWILLIAMS系の工場でも両者のブランドのピンボールを生産するようになったことと、デザインチームもどちらのブランドのマシンも手がけるようになったことに起因しているのだろう。

1992年にPat LawlorがデザインしたBALLYブランドの「The Addams Family」が、累計生産台数22000台を記録し、「Eight Ball」の持つフリッパー・ピンボールとしての記録を14年ぶりに破った。

1999年にWILLIAMS/BALLYは、PINBALL 2000というブラウン管をディスプレイとして組み込んだ新たな試みをピンボールに取り入れ、「Revenge From Mars」を第1作としてBALLYブランドで発表した。これはWMSがピンボールの苦境を脱する最後のチャレンジだった。しかし、1999年10月にWILLIAMS/BALLYの親会社であるWMSはピンボールの生産からの撤退を公式に発表した。ここにBALLYブランドでのピンボールの生産は、68年の歴史を閉じたのである。


(注釈1):
1941年の12月に、ニューヨークでピンボールが禁止条例が可決された。その後、シカゴ、ロサンゼルスでも禁止となった。業界の努力によりピンボールが解禁になったのは、ロサンゼルスが1976年、ニューヨークは1976年だった。そして、シカゴにおいても1977年に解禁された。1997年現在でもニューヨークに代表されるいくつかの州で、リプレイやマッチなどの フリー・プレイが公式には禁止されているのは、この様な歴史的な経緯からである。


年度内容
1931年Raymond Molonyによってシカゴで設立される。
1931年「Ballyhoo」を発表する。
1933年初のペイアウト・マシン「Rocket」を発表する。
1934年Harry Williamsの発明によるTILTを備えた、「Signal」を発表する。
1936年バンパーを備えた初めてのマシン「Bumper」を発表する。
1956年初のマルチボール・マシン「Balls-A-Poppin」を発表する。
1963年BALLY独特のマッシュルーム・バンパーを備えた「Monte Carlo」を発表する。
1966年初めてのジッパー・フリッパーを備えた「Bazaar」を発表する。
1975年BALLY最初のソリッド・ステート・フリッパー「Bow and Arrow」を発表する。
1977年累計生産台数20,000台を越える大ヒット作「Eight Ball」を発表する。
1979年ピンボール部門の伸長により、BALLY PINBALLが独立会社となる。
1980年バイ・レベル構造を持った「Flash Gordon」を発表する。
1980年チューブ状のランプレーンを持った「Xenon」を発表する。
1982年業績不振による合併により、BALLY MIDWAYをブランドとする新会社となる。
1988年BALLY MIDWAY最後のマシン「Blackwater 100」を発表する。
1988年WILLIAMSの親会社であるWMSにピンボール部門が売却される。
1988年売却後初のマシン「Truck Stop」を発表する。
1992年「The Addams Family」が「Eight Ball」を抜いて、フリッパー・ピンボールとしての生産台数新記録台を樹立する。
1999年PINBALL 2000シリーズとして、ブラウン管をディスプレイとして組み込んだ「Revenge From Mars」を発表する。
1999年親会社のWMSは10月にピンボールの生産からの撤退を発表。BALLYブランドでのピンボールの生産は終焉する。


参考文献

文責:出井和幸


(C) 1997-1999 Tokyo Pinball Organization