T.P.O.ヒストリー

1977年8月1日、当時高校2年生であった迫田(現代表)と堀口(現副代表) の二人は、ボーリングの無料券を握りしめて、日野市のWボウルへ行った。そこで遭遇したのがGOTTLIEBのCENTIGRADE37であった。小学校の頃から、互いにピンボールをしていた2人であったが、改めてこの日ピンボールのおもしろさを再認識した。
そしてこれがT.P.O.の前身であり、後にS.G.C.(SAKODA GAME CLUB)と呼ばれる集団の誕生であった。

当時、ピンボールは隆盛を極めており、新宿フリッパーでのプロフリッパー連盟やその他多くのピンボーラーとの交流は大いに刺激となった。しかし、ピンボールと勉学の両立は難しい。あえなく大学浪人となってしまった2人であった。
その後、テレビゲームの爆発的なブームと共に、ピンボールは減少の一途をたどった。一方、無事大学生になった2人であったが、おもしろいマシンがリリースされなかったこともあり、S.G.C.の活動も下火となっていた。

だが、1985年、WORLD GAME チェーンによりピンボール大会が開催されていることを知り、二人はさっそく2月2日の大会に参加した。初参加を優勝で飾った迫田は、これを機に2月23日に新たなピンボール活動にむけて団体の名称をS.G.C.からT.P.O.(TOKYO PINBALL OSCILLATION)と改めた。これは、テレビゲームから足を洗い、ピンボールに専念するという決意を込めたものでもあった。
その後、大学を卒業し、大学職員となった堀口は、あろう事か後輩達を次々とピンボールの世界へ引きずり込んでいった。なかでも、1993年にIFPAチーム部門とEXPOで優勝した石井は、行動力、集中力、解析力で群を抜いていた。現在も、ピンボールに関するあらゆる解析や分析においては、国内トップクラスの実力の持ち主である。

多方面からピンボール好きが集まった結果、1986年11月23日に、中野サンプラザにおいて約20人による総会が開かれるまでになった。1987年10月18日、第2回総会の後、池袋で大会を行っていたメンバーと偶然遭遇したのが出井であった。集団で、しかもスコアーをつけながらプレイしている人達を見た出井は驚いた。今までこの様な人達がいるなんて想像もしなかったのだ。意を決して声を掛けた後、堀口とBLACK PYRAMIDをプレイし、後日の再会を約束した。新宿で迫田、堀口らと再会した出井は、1人でプレイしてきた10年間の鬱憤を一気に爆発させるごとくしゃべりまくりT.P.O.のメンバーになった。
そして、偶然はこの日もう1人の強力なプレイヤーと再会をもたらした。彼の名は増田、かつて新宿フリッパールームにおいて、10数台あるマシンのハイエストスコアを迫田と共にほぼ二分していた人物である。

この様に、プレイヤーとして実力のある人間が集まる一方で、T.P.O.は次第にピンボールの普及、という方向へも活動範囲を広げていった。
これは、1988年に堀口がデータイースト(株)に入社してから、より顕著になった。それまでは、単にピンボールのプレーヤーにすぎなかったメンバーが、店舗のインカムというピンボール設置の命運を握る事がらに気がついた時期でもあった。メンバーにこの事を自覚してもらい、長時間プレイを避け、インカムを下げないようにしなければならない。結局、リプレイしやすいから、ずっとゲームをやり続ける。ティルトがないマシンで揺らし放題揺らす、といった行為が、設置マシンの減少や設定が厳しくなるといったかたちで、プレイヤー自身の首を絞めていくのだ。
一方で、輸入販売を行っている各社(データイースト,サミー工業,テクモ,カプコン)との協力を進めるだけでなく、シグマ,東京キャビオートなどのオペレーターとの情報交換も積極的に行っていった。プレイヤーの立場から、インカムを考慮に入れた設定や、マシンの問題点等について情報を提供した。

そして、1989年には、ソフトバンク(株)より刊行されたピンボール グラフィティに全面的に協力するまでになった。
1990年の11月、アメリカ、シカゴで開催されたピンボール・エキスポに、堀口、石井、出井の3名が参加した。そこには、1940年代から最新マシンまで数百台のマシンが並び、書籍、資料から、ピンボールグッズまで、まさに様々な物があふれていた。これを見た、東洋の片隅からきた3人組は、完全に参ってしまった。まさにピンボールはアメリカの文化であり、生活の一部なのだ。主催者のロバート・バークのとても親切で、熱烈な歓迎を受けた彼らは、なんと、特別にウィリアムス社に連れていってもらい、ロジャー・シャープ(アメリカで最も有名なピンボール研究家、現ウィリアムス社マネージャー)に会った。
その後、パット・ローラー(アダムスファミリー、アースシェイカー等のデザイナー)やラリー・デンマー(ウィリアムス社の有名なプログラマー)とも会い、まさに夢のような4日間を過ごしたのであった。
そして、このピンボール・エキスポはもう1つの偶然をT.P.O.にもたらした。1人の日本人との出会いである。この人物、佐藤はピンボール好きが高じて、単独で参加していたのである。
帰国後、T.P.O.のメンバーとなった佐藤を詳しく知るにつれ、みんなは驚いた。彼は、1950年代以降のマシンに精通しているだけでなく、数十台のマシンを持つコレクターでもあった。

その後、毎年アメリカでの大会に参加していたT.P.O.のメンバーであったが、1993年にミルウォーキーで行われた、IFPA主催の世界選手権ダブルス部門において、石井、増田のペアが優勝を飾った。この大会には、5人のT.P.O.のメンバーが参加したが、全員が入賞を果たした。

1997年現在、ピンボールの置かれている環境は大変厳しい。特に日本において、1970年代のようにロケーションにピンボールがズラッと並ぶことは、もはや有り得ないであろう。
しかし、ピンボールは不滅である。たとえ、新しいマシンが日本に入らなくても、ピンボールはなくなりはしない。そして、ピンボールがある限り、T.P.O.は不滅なのである。


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