Raymond T. Molonyは、あまりにも売れる「Baffle Ball」をみて、「Ballyhoo」というピンボールを開発し発売した。そして、ここからBALLYという社名を採用したのである。しかし、GOTTLIEBが常に健全なアミューズメント・マシンの開発に注力したのと異なり、BALLYの歴史はギャンブル・マシンの開発と切り離して語ることはできない。 BALLYは1933年には初のペイ・アウト・マシン「Rocket」を発表した。当時、多くの業界人は現金を支払うペイ・アウト・マシンの将来に楽観的で、GOTTLIEBやGENCO以外のほとんどのメーカーがこれに追随した。だが、ペイアウトは人々の反感をかうようになり、新聞でオペレーターは犯罪者のように扱われ、ピンボールをするプレイヤーは、働かずしてお金を稼ごうとする怠け者と見なされるようになっていった。そしてニューヨークを初めとする全米各地で、ピンボールが禁止されていった。ピンボール生産の中心であるシカゴでさえも、ピンボールは禁止されてしまったのである。
WILLIAMSの創設者は、いうまでもなく「ピンボールの父,ピンボールのエジソン」と呼ばれるHarry Williamsである。しかし、David GottliebがGOTTLIEBの歴史と共に歩んだのと異なり、Harry Williamsの業績はWILLIAMSの歴史とイコールではない。Harry Williamsの偉大な発明、電気式マシンの発明(「Contact」1933年,PACIF−IC AMUSEMENT MFG)と、TILTの発明(「Signal」1934年,BALLY)は、いずれもWILLIAMSを創業する以前のものである。この様な発明で、ピンボール・デザイナーとしての名声を固めたHarry Williamsは、BALLY,EXHIBITなどのピンボール・メーカーの仕事をした後、1942年についに自分の会社WILLIAMSを設立した。そして1947年にSam SternがWILLIAMSの共同経営者になり、彼に会社を売却する1959年までWILLIAMSを経営していた。余談であるが、Harry Williamsはその後ピンボール・デザイナーとしてWILLIAMSで「Toledo」1976年を、 STERNで「Galaxy」1980年や「Flight 2000」1980年などのマシンのデザインを手がけたり、ピンボール・コンサルタントとして活動をしていた。
1930年以降、バックグラスの導入やエレクトロニクス化によりピンボールは発展したがBALLYによるペイ・アウト・マシンの発明と普及によって、次第にピンボールはギャンブル・マシンと見なされていく。しかし、GOTTLIEBはペイ・アウト・マシンを生産しなかったことで、ピンボール業界を救うことになる。David Gottliebは、ある意味では非常に保守的な経営者で、この様なギャンブル化の方向を好まなかった。そういった部分は、マシンのデザインにも現れており、これをGOTTLIEBらしさとも言うことができる。そして、現在のピンボールの基礎となったのが、1947年のフリッパーを備えた世界最初のピンボール「Humpty Dumpty」である。これにより、ピンボールはペイ・アウト・マシンやビンゴとは一線を画すことになる。それまでの、ボールをプランジャーで打ちだしたあとは運任せだったゲーム性を、フリッパーの発明によりプレイヤーの技術介入可能な、スキル・ゲームに変えたのである。しかし、初期のフリッパーは、現在のようにフィールド下部に左右に配置され、ボールが落ちるのを防ぎかつどこかを狙うといったような性質のパーツではなかった。しかし、このフリッパーの発明こそが、現在のフリッパー・ピンボールの礎を築いたのである。また、1960年「Flipper」に導入されたアド・ア・ボールという概念は、ギャンブル・マシンとの違いを明確にする発明だった。
フリッパーの発明により、ギャンブル・マシンとは異なるアミューズメント・マシンに傾倒していったピンボールは、1960年代に入るとさらに発展を続けていく。BALLYは1963年に他社にはないマッシュルーム・バンパーを備えた「Monte Carlo」を発表した。続いて1966年に、初めての閉じるフリッパーであるジッパー・フリッパーを備えた「Bazaar」を発表した。WILLIAMSのSteve Kordekは、1960年にムービング・ターゲットを搭載した初のマシン「Magic Clock」を、1962年には初のドロップ・ターゲットを持つマシン「Vagabond」を製作した。GOTTLIEBも斬新なフィーチャーを持つ「Slick Chick」1963年を初めとして、「Gigi」1963年、「King & Queens」1965年などヒットを飛ばした。
さてピンボールの歴史を語るには、もう1社の名前を挙げなくてはならない。それはCHICAGO COINである。創立者Sam Gensburgは、同じピンボール・メーカーだったGENCOを設立したGensburg兄弟の4番目の弟である。彼はGENCOには参加せず独自にCHICAGO COINを設立した。そして、様々なアミューズメント・マシンを作り出していった。どちらかといえばCHICAGO COINの名前は、ガン・ゲームやベースボール・ゲームで広く知られているが、45年の歴史のなかで220台以上のピンボールを生み出している。そのうち、フリッパーが付いたいわゆるフリッパー・ピンボールは66台を数える。日本でも、「Hula-Hula」1965年、「Gun Smoke」1968年、などはなかなか人気があったマシンである。Sam Sternは1959年にWILLIAMSのオーナーとなり、後にこれを売却した。そして彼は、1977年にCHICAGO COINを買収し社名をSTERNとして、ピンボールの生産を続けた。
70年代に入っても、ピンボールは隆盛だった。
BALLYの「Fireball」1971年、「Nip-It」1972年、「Wizard」1974年、「Capt. Fantastic」1975年などは、今でも人気が高い。なかでも大物ロック・バンドTHE WHOの「Tommy」はピンボールをテーマにしたロックオペラで、音楽も同名の映画も大ヒットとなった。このタイアップ・マシンの「Wizard」と、Elton Joneがバックグラスに描かれている「Capt. Fantastic」の成功は、BALLYを業界のトップ・メーカーに押し上げた。
WILLIAMSは「Klondike」1971年、「Doodle Bug」1971年、「OXO」1973年、「Space Mission」1976年等の傑作マシンを製造した。
GOTTLIEBも「High Hand」1973年、 「Top Score」1975年、「Spirit of '76」1975年、「Big Hit」1977年などを作り、これらは今でも人気が高い。
CHICAGO COINも「Hee Haw」1973年「Cinema」1976年などのヒット機種を出した。
そして、ピンボールは健全なアミューズメントとして認知され、ピンボールを禁止する法律も解禁されていった。まさに4大メーカーが傑作を次々とリリースし、ピンボールが隆盛を極めた時代だった。
余談ではあるが、日本やヨーロッパなどでその国独自のピンボールが作られたのも、主としてこの時代である。日本ではSEGAに代表される数社がピンボールを作っていた。
しかし、ピンボールを脅かす新たな勢力が台頭してきた。それがビデオ・ゲームの出現である。これによりピンボールは次々とアーケードから撤去され、メーカーは危機感を強めた。そして、それまでのリレーを使ったピンボールから、IC化したソリッド・ステイト・ピンボールを開発していった。面白いことに、ソリッド・ステイト・ピンボールの先鞭を付けたのは4大メーカーではなく、ALLIED LEISUREの「Dyn O' Mite」1975年である。ただしこのマシンはソリッド・ステイトを取り入れたハイブリッド・ピンボールとして知られており、トータルにソリッド・ステイト化されたピンボールの最初のマシンは、同じ1975年にMIRCOの「Spirit of 76」と言われている。実は各社とも密かに研究はしていたようなのだが、正式に量産されたのはBALLY「Freedom」1976年、WILLIAMS「Hot Tip」1977年、GOTTLIEB「Cleopatra」1977年とされている。1960年代から70年代までの、ソリッド・ステイト化される前のGOTTLIEBには傑作が多い。今でも、この時代のGOTTLIEBのエレメカマシンを、BALLYやWILLIMASよりも好むオペレーターは多く存在している。しかし残念なことに、GOTTLIEBは徐々に時代の進歩から取り残されていった。
その後のソリッド・ステイト・ピンボールの登場にもうまく対応したBALLYは、1977年に累計生産台数20,000台を越える大ヒット作「Eight Ball」を発表した。これは、その後10年以上破られない記録となった。WILLIAMS、GOTTLIEB、1977年にSam SternによりCHICAGO COINを買収したSTERNも奮闘していた。
1970年代までのGOTTLIEBや1970年代から80年代にかけてのBALLY隆盛の時代、WILLIAMSは90年代のようなトップ・メーカーとは言い難かった。大手ではあったが、2番手以下のメーカーであった。「Firepower」1980年、「Black Knight」1980年などのヒットはあったものの、プレイヤーの評価もあまり芳ばしくなく、一時期BALLYに買収されるのでは、という噂があった程である。
さらに1980年代半ばになるとピンボールの衰退は顕著になった。各メーカーは試行錯誤を繰り返したが、打開策はなかなか見出せなかった。バイ・レベル・マシン(多段階構造マシン)、リメイク・マシン、ビデオ・ゲームとの合体ピンボール、などの変わったピンボールが出現したが、所詮亜流でありヒットには結びつかなかった。
その中でSTERNは1984年に倒産した。
GOTTLIEBは1983年にMYLSTARに社名を変更し、ビデオ・ゲームにも力を入れる方針を打ち出したが、1984年に工場閉鎖に追い込まれた。しかし、地元の投資家を募って1984年にPREMIERとして操業を再開し、ブランドとしてGOTTLIEBを継承していくことができた。
WILLIAMSピンボールを支えてきたのは、Steve Kordek,Steve Ritchie,Mark Ritchie,Pat Lawlorなどのデザイナー陣である。特にSteve Kordekはピンボール・デザイナーとしてベテランで1940年代から今まで100台以上のピンボールをデザインしている。「Space Ship」1961年、「Friendship "7"」1962年、「Hot Line」1966年、「Cabaret」1968年、「Super Star」1972年、「Space Mission」1976年、「Wild Card」1977年などは名作として知られている。
さて、このピンボールの危機的状況を打破したのが、1984年「Space Shuttle」だった。プレイフィールド内部にNASAのスペース・シャトルの模型を配置したこのマシンは、久しぶりのヒット作となった。そして、WILLIAMSの復活を決定したのが、1985年の「High-Speed」である。Steve Ritchieデザインのこのマシンは、ジャックポットやステータス・レポートを採用した初のマシンであり、さらに、故障しているスイッチを検出するための自動スイッチテストと、プレイヤーのレベルに応じて自動的にリプレイ点を調整する自動リプレイパーセンテージ等の新機能も採用した。Steve Ritchieはこの後も「F-14 Tomcat」1987年などのヒット作をデザインした。
一方、1980年代半ばになり業績不振に苦しんでいたBALLYは、1988年ついにピンボール部門をWILLIAMSの親会社であるWMSに売却することになった。BALLYはブランドしては残ったが、これ以降のBALLYマシンは徐々にWILLIAMSのマシンに似た内容になり、デザイナーの垣根もなくなっていくことになる。
1987年に日本のDATA EASTは、アメリカでのピンボール事業をスタートさせた。
こうして生まれたのが、DATA EAST PINBALLである。発足にあたって、Sam Sternの息子のGary Stetnが総支配人となった。しかし、DATA EASTのマシンは、STERNの伝統を受け継いだというよりは、ゲーム内容ではWILLIAMSの影響を強く受けていた。これは、フリッパーの形状やゲームルールなどからもうかがうことができる。だが、WILLIAMSに対抗すべく、DATA EASTは、独自の技術やシステムを積極的に取り入れていった。第一作の「Laser War」は、ピンボールとして初のデジタル・ステレオ・サウンドを採用しており、のちにWILLIAMSもこれに追随することになる。1989年には世界初のソリッド・ステイト・フリッパーを備えた「Robocop」を発表した。これは、フリッパー・コイルに流れる電流を今までのEOS・スイッチにより制御する方式から、基盤によりコントロールするシステムに変更したものである。なお「Robocop」の2作前のマシンである「Playboy」1989年において、一部のマシンにはこのソリッド・ステイト・フリッパーが採用されていた。1991年には、初のドットマトリックス・ディスプレイを備えた「Checkpoint」を発表した。これはその後の各メーカーの主流となり、WILLIAMSは「Terminator2」,BALLYは「Gilligan’s Island」,GOTTLIEB「Super Mario Bros.」でドットマトリックス・ディスプレイを採用する事になる。
その後DATA EASTのシェアは、GOTTLIEBを抜いて業界第2位になった。
つまりWILLIAMS/BALLYに次ぐメーカーになったのである。特に版権を使用したマシンの積極的な導入により、大いに業績を伸ばした。「Batman」1991年、「Lethal Weapon 3」1992年、「Star Wars」1992年、「Jurassic Park」1993年、「Guns N’ Roses」1994年などのビッグタイトルを連発し好評だった。
この時期、WILLIAMSは相変わらず好調で、ヒット作を作り続けていた。Mark Ritchieは、「Taxi」1988年を、のちに「Indiana Jones」1993年などを手がけた。Pat Lawlorは「Banzai Run」1988年、「Earthshaker!」1989年などの傑作マシンを発表した。特に「Whirlwind」1989年は、ミニ・ゲームとそれを全て完成させたあとのビッグ・ゲーム、という概念を初めて取り入れたマシンで、その後のゲーム・コンセプトに多大な影響を与えた。
1992年にPat LawlorがデザインしたBALLYの「The Addams Family」が、累計生産台数22,000台を記録し、「Eight Ball」の持つフリッパー・ピンボールとしての記録を14年ぶりに破った。
1990年代に入ると、ピンボールのフィーチャーはますます複雑になった。また、版権マシンがメインになりBALLYは「Creature from the Black Lagoon」1992年、「NBA Fastbreak」1997年、WILLIAMSは「Indiana Jones」1993年、「Star Trek The Next Generation」1993年、「Congo」1995年、GOTTLIEBは「Street Fighter II」1993年、「Stargate」1995年、DATA EASTは「Last Action Hero」1993年、「Maverick the Movie」1994年などがリリースされ、点数はインフレ化する一方だった。 そして、1994年以降ピンボールの市場は急激に冷え込んでいく。あまりに複雑なゲーム性や、家庭用ゲームの普及などによるプレイヤー離れに加えて、メインテナンスに手が掛かるピンボールをアーケードが嫌がり、なおかつインカムが上がらない事等が、その衰退の主な原因と考えられる。複雑で難易度の高いルールや1000億点の桁の出現といった、行き過ぎた部分に多くの人達がピンボールを楽しめなくなっていったのである。
このような中で、GOTTLIEBのピンボールは、WILLIAMS/BALLYやDATA EAST/SEGAに比べて地味な傾向は否定しがたく、業績が回復することは難しかった。結局、世界的なピンボール市場の低迷を受けて1996年に業務を停止した。ここに、世界最初のピンボール・メーカーであり最古のブランドであるGOTTLIEBの歴史は66年の幕を閉じた。
そして、WILLIAMS/BALLYは、PINBALL 2000というブラウン管をディスプレイとして組み込んだ新たな試みをピンボールに取り入れた。これは同社のピンボールの苦境を脱する最後のチャレンジだった。WILLAMSは大ヒット映画となった「Star Wars Episode I」の版権を獲得し、同名のピンボールをPINBALL 2000のWILLIAMSブランド第1弾として発表した。しかし、1999年10月にWILLIAMS/BALLYの親会社であるWMSはピンボールの生産からの撤退を公式に発表した。ここにWILLIAMSは58年、BALLYは69年の歴史を閉じることとなった。
これによって、WILLAMS、BALLY、GOTTLIEBというピンボールを代表してきたブランドはすべて消滅することになった。
1994年にDATA EAST PINBALLはSEGAのアメリカ法人に売却され、 SEGA PINBALLが誕生した。1999年にはさらにSEGA PINBALLを Gary Sternが買い取りSTERN PINBALLが発足した。STERNの復活である。10月末にはWILLIAMS/BALLYがピンボールの生産からの撤退を発表し、STERN PINBALLはピンボールの生産を続ける唯一のメーカーになってしまった。残ったSTERN PINBALLは、その後ピンボール業界の有力なデザイナーやスタッフが集まる拠り所となり、「The Simpsons Pinball Party」2003年、「Terminator 3」2003年、「The Lord of The Rings」2003年、「Elvis」2004年といったマシンをコンスタントに発表している。
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